"シニア用の読み物は大きな文字で組みます。視力の衰えへの配慮であれば、太めのゴシック体で組むのが一番読みやすいはずです。しかし、高齢者ほどゴシック体より明朝体を好むものです。理屈で考えれば、いくらウロコが付いているとはいえ、細い横画が見やすいはずもありません。しかし心理的には明朝体の方が読みやすく感じるようです。この場合、慣れや美意識が実際の機能を超えた例だと考えられます。"
— 第九回 書体を選ぶ 和文書体を見分ける その3 | 文字の手帖 | 株式会社モリサワ (via arihara) (via katoyuu)
"ナビスコはいいスポンサーだよな
最初に冠スポンサーを引き受ける話を社内で検討した時に、
サッカーブームは3年で終わる、それ以後は費用対効果が望めないって結論が出たけど社長がやるって決めたんだよ
そして17年間欠かさず決勝をスタンドで観戦してる
だからJリーグがいい時も悪い時も見続けてきたんだよ
客入りが寂しい年が続いた時も、決してスポンサーを降りなかった
しかもJリーグやサッカー協会に口出しする事は規定で禁じられてる
Jリーグ開幕の93年以前から今まで、Jリーグで純粋なスポンサーだけを続けてるのはナビスコだけ
日本のサッカーを支えてきたと言って過言じゃないと思う
そういうスポンサーに選手が感謝の念が少しでもあれば、負けたからといってあんな態度はできないはずだよ"
— サッカーちゃんねる : 「許せない態度 すべての人に対して失礼」表彰式での川崎選手の振る舞いに対し、鬼武チェアマンが怒りをあらわに★2 (via sayusayukawaii) (via gkojax) (via katoyuu)
"しかし私が申し上げたいのは「本来生活を豊かにするための住まいを、投資効果だけで判断するのは本末転倒である」ということです。
「田舎暮らしが好きだけど、都心で購入した方がキャピタルゲインを狙えるから都心を買う」みたいな行動は、「家賃を支払うのは無駄だからマンション購入」と同じくらい愚かです。"
— 新築マンション購入と賃貸(50年後の場合) - 不動産屋のラノベ読み (via otsune)
"「例えば、日本の開発現場には、Microsoft Office Excelのセル幅を小さく設定して、方眼紙のような感覚で使っているところもありますよね。確かに、縦横へ自由に罫線を引けて見やすいドキュメントになるのですが、米国人にそのことを話すと、大方、クレイジーという反応が返ってきます(笑)」"
— 【インタビュー】「罫線が大好きな日本人に米国人開発者が驚愕」 - グレープシティ 八巻氏 | エンタープライズ | マイコミジャーナル (via otsune)
"
[欧米]
・タイプライタ文化
・表は、白地の上にデータを並べるのが基本。タイプライタで清書。
・だから発想が、表ではなく行-列
・スプレッドシートは、当初罫線機能なし
・今でも、Excelをプリントアウトすると、デフォルト罫線なし
[日本]
・中身ではなく、形から入るのが好き
・だから、共通書式には、最初から罫線が入っている
・原稿用紙は、1マス1文字の共通書式にすぎない
・和文印刷も和文タイプも、1マス1文字に最適化されている
http://www.w3.org/TR/2009/NOTE-jlreq-20090604/ja/ [w3.org]
・罫線があると安心
・罫線がないと、何を書いていいかわからない
・プランナーの仕事は、罫線を引くこと
"
— Excelを方眼紙代わりに使う日本人、クレイジーと米国人が驚愕 - スラッシュドット・ジャパン (via inhouseneet) (via webstocker) (via otsune)
"レヴィ=ストロースとともにフランスの知性が世界に君臨していた時代が完全に終わった。
同世代の知識人たちはもうみんな亡くなっている。
アルベール・カミュ、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、モーリス・メルロー=ポンティ、モーリス・ブランショ、ジョルジュ・バタイユ、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、レイモン・アロン、エマニュエル・レヴィナス・・・
この人たちがほんとうに狭い知的サークルにひしめいていたのである。
ナチスの占領下のパリでパブロ・ピカソの戯曲『尻尾をつかまれた欲望』の上演会がミシェル・レリスの家で行われたことがあった。
演出はカミュ。ボーヴォワール、ドラ・マールらがこの豪華な文士劇に出演した。上演後、脚本家、プロデューサー、演出家を取り巻いて俳優たち観客たち(ジャン・ルイ・バロー、シルヴィア・バタイユ、ジャック・ラカンら)が記念写真に収まっている。
彼らはその場にいた知的・芸術的エリートたちがそれぞれどんな仕事をしているのか、よくは知らなかった。
けれども、自分たちがナチス占領下のフランスに残された「最後の知的・倫理的希望」だということはするどく自覚していたはずである。
そういう知的・倫理的負託感というものを私たちはうまく想像することができない。
私たちの国にはそういう意味での「エリート」というものが存在しないからである。
もちろん権力や威信や文化資本を潤沢に享受している人々はいる。才能のある人々もいる。努力して高い社会的地位を得た人もいる。
けれども、彼ら単に優越していることを言祝ぐだけで、おのれの「優越性」を「世界を知的・倫理的に領導する責務」として重く受け止めるというようなことは思いもしない。
20世紀フランスの知的エリートたちは「自分たちがフランスの知性の精髄」だという自覚を持っていた。自分の個人的な営為の成果がそのままフランスの知的威信と、フランスが世界に差し出す「知的贈り物」のクオリティに直結するということを自覚していた。
私の知的達成がフランスの知性の最高水準を決するのだという壮絶な自負と緊張感をもって彼らはそれぞれの仕事をしていたのである。
ボーヴォワールとメルロー=ポンティとレヴィ=ストロースはアグレガシオン(哲学教授試験)の同期だった(サルトルは一回落ちたので、一年後輩)。
「アグレガシオンの同期」というのがどういう感じなのか私には想像もつかないけれど、お互いにどの程度の知的ポテンシャルをもった人間であるかについては、おそらくきわめて正確な相互評価をしていたはずである。
その試験のとき、私の想像では、ボーヴォワールとメルロー=ポンティとサルトルは「つるんで」いた。
試験のあいまに近くのカフェでちょっと休憩とかしているときに、「はは、楽勝だったねえ、さっきの試験」「オレ、時間あまっちゃったから、裏まで書いちゃったよ」などと声高に語って、まわりの受験生たちを怯えさせていた(そんなにせこくないか)。
でも、パリ大学出(ということは二流大学出ということである)レヴィ=ストロースはこのエコール・ノルマル組からある種の「排他性」と「威圧感」を感じたはずである。
たぶん「世界でいちばん頭がいいのって、やっぱオレだろう」という自負をもっていたレヴィ=ストロース青年にとって、パリのブルジョワ的な鷹揚さは許しがたいものに映ったのである。
片隅でまずいコーヒーを啜りながら、レヴィ=ストロース青年は「お前ら、いまのうちにたっぷり笑っとけや。いつかその坊っちゃん嬢ちゃん面に泣きみせたるわ」と思ったのである(全部、私の想像ですけど)。
そんな気がする。
とにかく、アグレガシオンの試験が1930年前後で、レヴィ=ストロースがサルトルの世界的覇権に引導を渡したのが1962年『野生の思考』においてのことであったから、ざっと30年かけて、レヴィ=ストロースは「そのとき」の試験会場で高笑いしていたパリのブルジョワ秀才たちに壮絶な報復を果たしたのであった。
すごい話である。
自己史がそのまま哲学史であるような一種の幸福な自己肥大の中に生きた青年たち。
このような知的エリートを生み出す社会的基盤はもう存在しない。フランスにも、アメリカにも、どこにも存在しない。
そういう意味でも、ひとつの時代が終わったのである。"
— 追悼レヴィ=ストロース (内田樹の研究室) (via rajendra) (via hanemimi)